第1章:上野駅で発見された小さな命
1988年(昭和63年)4月6日、東京都台東区・JR上野駅中央連絡通路中二階にある女子トイレ内で、男性の新生児の遺体が発見されました。清掃中の職員が便器内で異物を見つけ、通報によって警察が駆けつけたところ、それはへその緒と胎盤が付いたままの未熟児の赤ちゃんでした。
医師の検視によると、この赤ちゃんは身長35.5センチ、体重900グラムほどで、明らかに妊娠満期前に生まれた未熟児。胎盤がついていたことから、出産直後に遺棄されたか、あるいはトイレ内で出産された可能性が高いとされています。
母親は現場におらず、また監視カメラのない時代であったため、誰がこの赤ちゃんを産み、放置したのかは不明のまま。最終的に本籍・住所・氏名不詳の死亡新生児として記録されることとなりました。
第2章:「鈴木実」という名──戸籍法58条に基づく命名
この赤ちゃんには、特異な出来事が起こりました。遺体を収容・確認した台東区役所が、戸籍法第58条に基づき、赤ちゃんに「鈴木実(すずき みのる)」という名前を与え、本籍地を東京都台東区東上野四丁目五番地と定めたのです。
▸ 戸籍法第58条とは?
戸籍法第58条: 本籍、氏名、生年月日等が不明な死体が発見された場合、市町村長は職権でそれらを定め、死亡の戸籍届出を行うことができる。
これは、無縁者や身元不明者であっても、人間として法的な存在を記録し、死後の尊厳を守るための条文です。行政の判断で仮の本籍や氏名を付与することで、「その人の死が公的に存在したことを証明する」役割を果たします。
つまり、「鈴木実」という名前は、この世に短く生きた赤ちゃんに対し、「あなたはここに確かに生まれてきた」という、社会からの最後の優しさと敬意でもあるのです。
第3章:なぜ女子トイレで?見えない妊娠と孤独出産の現実
当時の状況から考えて、母親は妊娠に気づかれてはならない立場にあった可能性が高いと考えられています。家族からの抑圧、交際相手とのトラブル、経済的困窮、または10代の未婚妊娠──いずれにしても、誰にも助けを求められず、一人で出産せざるを得なかった女性の姿が背景に浮かび上がります。
妊娠が「見えないまま進み」、適切な医療を受けることなく、列車の騒音に紛れて駅のトイレで出産するという状況は、現代であってもなお発生しています。
第4章:防げたはずの命──制度の「隙間」に落ちた子どもたち
「鈴木実」くんのように、命を授かって生まれたにもかかわらず、誰にも知られずに亡くなる赤ちゃんは、実は今も全国で毎年発見されています。
特に問題となるのは、以下のようなケースです:
- 未成年が孤独に妊娠・出産するケース
- 家庭内暴力や性被害による“隠された妊娠”
- 経済的理由で産婦人科にかかれない妊婦
こうした人々にとって、現在の日本の医療・福祉制度は**十分に「開かれていない」**のが現実です。
近年では、「内密出産(本人の匿名性を守る出産制度)」や、「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」といった制度が一部地域で導入されていますが、全国的にはまだ制度が整っておらず、相談体制の周知も不足しています。
第5章:私たちが「鈴木実」くんから学ぶこと
鈴木実くんは、名前を与えられ、戸籍に記録され、この世に「存在したこと」だけは確かになりました。しかし、その背後には、助けを求めることすらできなかった誰かの苦しみが確実に存在しています。
この出来事は、社会が一人の母親を見逃し、一人の命がこぼれ落ちたことを意味します。そしてそれは、制度・意識・支援の不在がもたらした“静かな死”でもあります。
私たちが「鈴木実」という名前に込められた意味を知ることは、未来の同じような命を救う第一歩になるはずです。



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